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ここソウルで、
高齢者政策を調べるために
お年寄りにいっぱい会っています。



70代後半の皆さんはみんな、




日本語を話します。



そんな彼らに出会う度に
意地悪なヘクター(メキシコ人)が
「日本についてどう思ってるか聞いてみろよ(笑)」
と言いますが、





「小学校で習っていたの」
「日本語で勉強していたのよ」

と語る彼らは、
一体何を懐かしみ、何を封印しているのでしょうか。


胸騒ぎがしてしまう辺り、
私は整理がうまくついていないのでしょう。








一人の人間として生きることは本来、本来は、
自分の意志と関係ない物事に関して責任を負う必要はないと思うのに、

例えば
マイノリティであることは
それ自体が、そのように生まれたことが、そのように在ることが
責任を伴うものなのでしょうか。
自分の希望を叶えるために闘う責任を負わなければいけないのでしょうか。

自分自身に問いかける日々が続いていて、
まだはっきりした答えが見つかりません。
ここ韓国でも同じことに悩むなんて。

マジョリティの歩み寄りは車の片方の車輪でしかないのに、
マイノリティの主張を求めてしまうことは「求めすぎ」なの?






「責任」。


自分が「負わなければいけないの?」と此処で感じる責任と連動していて
実に混乱します。






あぁ、そうですね。
私はあると思っていました。責任が。
自分に責任があると思っていました。漠然と。

ここに来て、それがあまりに漠然とし過ぎていたことが分かりました。
だからこそ責任を負わされる人間を見て、
実際に責任を負っているらしい自分を見つめ直して、
こんなに不安定な気持ちになるんです。






誰でもアイヒマンになるかもしれない一方で、

「潜在的にし得ることと実際にしたことは
 区別されなくてはならない」。

(ハンナ・アーレント)








そんな、「ニホンジン」の、わたし。
諸々の権利条約でも読み直すことにします。
何を成し遂げて、何を求めたらいいのか、考え直すことにします。
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