
この記事を読んでいて、働きアリのことを思い出しました。
動物は子孫を残すために生まれる、遺伝子にはそれがインプットされているはずなのに、アリの中には生殖機能を持たずに生まれてくるアリが、生殖機能を持つアリの3倍いると聞きました。子孫を残す女王アリ(1)に対して、働きアリ(3)。実はこのシステムのほうが、このアリたちにとってはより子孫を残していけるということでした。
でも、システムとしては良いのかもしれないけれど、働きアリは本当にそれでいいのかと思ってしまう。本来は子孫を残したかったはずなのに、働いてばかり。それを前向きに捉えるなら「女王アリのために働くことが僕のやりたいこと(=責任?)」だと考えているのかなぁ・・・。
ブログを読ませてもらいながら僕も自問自答してますが、もっと自分を好きになってみては?と思ってしまいます。「ニホンジン」という枠を設けること自体、これからの時代にはナンセンスなのではないかと。敢えて自分から枠にはいって、それを破ることは楽なことで、何もない状態で敢えてニホンジンを選ぶことのほうが、自分の意志を必要とするし、すごく大変なことだと思うけれど、これからはそういう時代なんだと思う毎日です。そのためには、「ニホンジン」である私ではなくて、ニホンジンが好きな私、そんな私を私は好きだ、と思える力があるべきなのかな。
【2008/07/06 01:01】
URL | A2 #-[
編集]

まぁ、結局これって
相手・その人の思いを汲み取ってあげることが一番の方法なんじゃない?
難しいけど。
カテゴライズされる側、とかくマイノリティが
自分の精神を支えるためには
「そのカテゴリー(マイノリティとマジョリティという線引き・分類)を認めて誇る」
「その線引き自体を無視して自分を見てもらう」か
必然的に選ぶとして。
カテゴライズする側としては、
その相手の思いを汲み取ってあげなきゃいけないのが難しいよね。
「分類を無視したい人」なら、聞くのはタブーだし、
「分類を認めている人」なら、聞いてあげても良いと思うし。
ただ、現実的にカテゴライズする側がそもそもそんな寛容になれないパターンもあるし、
(マイノリティを差別するパターンとか)
そういう状況を経験すると、カテゴライズされる側も気持ちが複雑になるよね。
「カテゴリーを認めたい」けど、実際には苦しいから「無視しがち」とか。
「無視したい」けど、状況的に「無視できない」。けれど「認めたくもない」とか。
だから、並木の言うそこに「在る」責任は「絶対的には」ないと思うけど、
「在る」責任を「強いられる」状況は大いにありうるし、
そういう状況を経験してきた人が感じてきたことは汲み取ってあげないと、
ギャップが起こってお互い苦しいよね。あぁ、懐かしきギャップ問題(笑)
まぁ、とかくセンシティブな問題には
ゆっくり腰をすえることが重要だと思う。
また帰ってきたらゆっくり話し聞かせてね。
【2008/07/05 17:00】
URL | Sakku #-[
編集]

「責任」が、「やるべきこと」になったときに、人はそれをどのように受容するのかな、と思いました。
なにか「される」という状況では、自分の責任を他人に転化することもできます。言い訳だってたくさんできるし、傷ついて卑屈になることも。なんで私はいじめられるの・・・(泣)みたいな。
でも、存在」が存在であるゆえに、
自分が何か行動を起こさなければならないとき、
エネルギーやお金をコストとして支払わなければならないとき、
果たしてそれを自分でできるのでしょうか。
たとえばお金がなくて、生きていくために補助金がいる、でも政府は出してくれない。周りはサポートしてくれない。
そうしたら、自分は政策を変えるために何か行動に出るか、誰かパトロンを必死で探すか、
はたまた、「社会はだめなんだ」と引き下がるか。
ここの話では、責任があるか否かって、当事者の意識とか線引きなのかな、とおもったりしてます。
自分が動く → 自分の境遇に対する自己の責任
動かない → 責任は国。社会。だとおもう。
客観的に、普遍的に誰が責任を持つか、
主観的に、具体的に誰が責任を持つか。
なみちゃんが思う波ちゃん自身の責任と
私が思う私自身責任って
あまりにレベルが違うんだろうな、と悲しくなりました。
【2008/07/05 16:54】
URL |
あすか #-[
編集]

人間は理性的な生き物だ、という言葉がある一方で、現実全然理性的ではないよね。
論理的にはその個人が責任を負わなくてもいいところで負わそうとしたり、短絡的な一般化(〜だからきっと〜に違いない)をしたりする。それは攻撃的な部分だけでなく、逆のケースもある。あの国から来たのだからこの人はかわいそうな人だ、とか、障がい者なんだから同情しなきゃ、とか。
口では多様な世界といいつつ、元々の人間自身の認識力が多様な状態についていける能力がない気がするね。
大体政治の論理と人の論理をごちゃまぜにしようとする人、教育にも賛成できんし、それにさらに民族主義的な感情を混ぜようとする人間も百害あって一利なしと思う。
そのへん理解して行動すれば、分かってくれる人はわかるはず。責任なんて簡単に負えるものではないよ。
【2008/07/05 12:00】
URL | najimo #-[
編集]

僕は時々、自分の行動が同じ立場におかれている他人に対する評価に影響を与えるのではないかと思います。実際に影響を与えることももしかするとあるかもしれないけれど、実際には全くの思い過ごしかもしれません。
僕が何かをすることやしないことを決断する時、そういう思いを口実にしている場合もありそうです。でもそのたびにそれは単なる思い込みなのではないかという気になります。単なる思い込みであって欲しいと感じているだけかもしれません。
僕と同じような状況におかれていて、そのことが大きな負担になっている人にとって、きっとマイノリティではあるんだけれどあまり苦労を知らない僕の行動が悪影響を与えてしまうのは避けたい、なんてことを時々考えます。 (と書いてて良い影響だったらいいか、とも思いましたが。)
僕にとっても、ちょっと考え直してみるべきことのようです。ありがとう。
【2008/07/05 05:30】
URL | Max #eaQHeSKM[
編集]

韓国いってるんだね^^帰ってきたら是非お話聞かせて☆
私も今毎日自分の進路と向き合う中で、これから自分が益々感じるであろう責任と、それを取り巻く思いを整理しようとしてます。
でも色々考えてうなってみたところでふと思うのは…何かを、誰かを大切に思う気持ちや心が全ての原動力になるんだなぁっていうこと。そこに守りたいものがあれば、責任を負わされているっていう気持ちは薄れて、ただただ一生懸命になれるような気がするのです。
とことんみんなを愛しぬく人生にするぞー。
【2008/07/05 00:46】
URL | ゆかり #-[
編集]

うちのジィサマは,第2次大戦下の朝鮮半島で教員してました。日本語で,日本の名前のついた朝鮮の人と,入植した日本人に。大戦末期,日本軍は,日本人入植者を見捨てて逃げましたので,多くの人がリンチにあったそうです,それまでの恨みが大きすぎて。ジィサマを日本行きの船に乗せてくれたのは,教え子の家族だったそうです。
どんな教師だったのか? 自分の肉親なのに,全然わかりませんが,戦後40年もたってから,「廃校するから,記念パーティーに先生に来て欲しい」と連絡がありました。ジィサマは死んでしまっていたので,叔母と従妹と叔父が招かれていきました。皆さんが,日本語で「先生がああだった,こうだった」と話してくれているのを聞いて,従妹は教員になると決めたそうです(今は教員)。
その時中心になって招待してくださった方を,従妹は結婚披露宴に招きました。その方は,はじめ
「日本人の中に自分が入るなんて,どう見られるだろう? 日本人と一緒の席に,自分は着けるだろうか?」
と思われたそうですが,
「来て良かった。」
と言ったそうです。
うちの家族は,アラブ人みたいだけど,韓国の人にも受け入れてもらえたけど,何故か日本人に,うけません。
祖父は,日本に帰ってから,日本の学校で同僚にいじめられて,結局,教員不足の北海道の招きで,分校の校長になって,遠くへ行きました。
「いろいろあっていい」と,受け入れることのできる人とできない人がいて,受け入れる人には,背負うものが,多くて,重いんです。
【2008/07/05 00:31】
URL | boomboom #-[
編集]