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今日は春日部まで行って、
パレスチナ・キャラバン関係のインタビューを受けて参りました。




そこで
「パレスチナが好きですか?」
と訊かれて、


「好きとか嫌いとか、そういうものではないんです」

とお答えしました。







パレスチナは私にとって、嫌いなものでもあるからです。













でも、実は私はパレスチナが好きなのかもしれません。




例えば、私はハーゲンが好きだけれど、
「あいつなんて大嫌いだぁっ」と思うこともあります。




「明日メールするよ!」と言いながらも3週間メールが無かったり、
「手紙を書くよ」と言っておきながらもサッパリ来なかったりする中で、

「会ったら先ず引っかいてやりたい。」
という欲求に衝き動かされて私が日々を過ごしているなんて、
向こうは知る由もないだろうなぁ。
むしろそんなSな彼女だなんて思ってないかも知れない。
彼のことはつねったし締めたし叩いたけれど、
「殴る・蹴る・引っかく・噛みつく」のナミキ的本領は発揮しなかったし。


普段は誰かに何かを求めない私は
恋愛においてはものすごく欲深くなってしまい、

相手が私の思い通りにならないのは分かっていながら
それが歯がゆくて憎くて実力行使に出てしまう、
そんな自分が嫌で落ち込む、


みたいなサイクルをグルグルしているのですが、
「相手が思い通りにならない」ほど自分の中での相手の重要性が増す、
というところがポイントなのです。
思い通りにならない相手ほど、逆に気になって仕方がないのであります。
「嫌い」という感情さえ内包されているこの一見して矛盾のような事態が
私にとっての「好き」なんだな。

「好き」は私にとって、
闘っていく中で自分と相手の存在意義を認識するような、
五体と五感を駆使した本気な関わり合いを求める衝動です。



考えてみれば、
読書をする時も作者や世界と「闘ってる」。
音楽を聴くときも作る時も自分や世界と「闘ってる」。





疲れないのか、と言われれば疲れるのだけれど、
どうしても離れられない。
離そうとすると物凄い痛みを伴うのです。




考えてみれば私がパレスチナに対峙する時、
私はやはり「闘っている」のです。
そういう意味で、
私はパレスチナが「好き」なのかも知れません。
パレスチナを愛しているのではないのです。













「愛」という言葉は元々舶来品だから
ちょっと宗教的なニュアンスを帯びているけれど、
それは慈しむ心を指すのであって、




ハーゲン:「君は、誰かを愛したことはある?」


  
なみ:「誰か一人を、ってこと?」



ハーゲン:「そう」



なみ:「……パートナーとして、という相手に対しては、無いかな」



ハーゲン:「無いの?!」






…うん。振り返ってみれば、無い。
身の回りの人たちに関して言えば愛してるけれど、
そして幸いなことにとても愛されているけれど、

一方からポンと「愛」を目の前に置かれるだけのような、
受け取る相手が敢えてするのはその確認と感謝のみであるような、
そういう自己完結的なものを、
逆に私はパートナーには求めない。
実は心の奥底で求めているのだけれど、
応じてくれた瞬間にパートナーは「身の回りの人」になってしまう。









だからハーゲン、
私は君のことを「愛」してはいないけれど、


君が本気で私と闘ってくれるなら、
何だかんだ言って「好き」で居続けるんだと思うよ。
だからたまにはメールよこしなさい。
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