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今でこそ、あんまり本を読む子ではありませんが、
小・中学の頃はかなりの読書っ子だった私。
夜中にふと起きだしては、


こっそり机の上の明かりで「フランダースの犬」を読んで泣く、
そんな子どもでした。
「リア王」や「にんじん」も好きだったけれど、
本棚を多く占めていたのは赤川次郎。
(そのため私は昔から耳だけ年増っ子である)


今では全部処分してしまい、
S.キングや村上春樹が数冊、それから気になって買った本たちが
本棚の小説コーナーを占めています。






小説を読むことは、私にとって「現実から飛び出す」手段でした。
お話の世界に入り込んで、
ロビン・フッドと一緒に闘って、彼の人生を一緒になって駆け抜ける。
三毛猫ホームズや片山、晴美と一緒に難事件を解決する。
泣いて、笑って、登場人物を愛したりして。
同様の理由でマンガも好きでした。









その後、高校では読むよりも書く機会が増え
読書の回数は減ったのですが、

大学受験生になった私は
かれこれ6年前、
読書に関する問題提起に出会ったのであります。




「読書は単なる『自分が現実世界で出来ない体験をする手段』ではない。」




大学の入試問題集に載っていた小論文で、
趣旨はそんな感じだったように記憶しています。
「じゃぁ読書は何なの?」という肝心の答えのところは忘れました。
ただ、「読書≠体験」という構図だけが脳内に鮮烈に残ったのです。

私は確かに、体験だけを享楽的に貪って生きていました。
だから実用書とか新書とか、そういうカタイものは嫌いでした。
読んでいるとじっとしていられなくなるからです。
カフカもダメでした。
興味を持って手には取ってみたものの、
なかなか状況が進まない彼の物語は、体験出来るものが少なかったからです。

新書を1冊読み通せるようになったのは、本当に最近のこと。去年かな。
それまでは「つまみ食い」的読み方でその場をしのいでましたよ。
論文調の文章より軽い文章が得意なのも、このコンプレックスに由来します。










じゃぁ、今の私なら言えるでしょうか?
紙の上での体験を飛び出して、行動を起こした私なら。
読書が持つ、私にとって本当に意味ある価値を。
読書の持つ、可能性と限界を。






今は、
新しい文章が私の心に投げる石にも似た重みのカタマリ、
それが作り出していく動揺、悲しみ、怒り、喜びをはじめとする波紋を味わいつつも
「なんで?」
「なんでこんな波紋が生まれるの?」
「なんで私は動かされるんだろう?」
と問い続けています。





なんでしょうね。
結局私は、
「ロビンフッド」は体験できないのです。
一生、娘として、学生として、そしてそのうち多分社会人として、母として、
「並木麻衣」を体験していくしかないのです。
難民の本を読んだってパレスチナの歴史を読んだって、
自分が難民になれる訳でもパレスチナ人と同化できる訳でもない。
「並木麻衣」が絡め取られた地盤を見つめながら
「ここから外部の人間として何をするのか」を問う、
そのような形で責任を負うことしか出来ないのです。


本を読むときもドラマを観るときも映画を観るときも、
体験を「消費する」だけではいけないと思ったなら、
それらが自分に
「引っ掻き傷」をつけること、
「試薬」を垂らすことを大事にしなくてはなりません。
引っ掻き傷が化膿していく様子、
試薬が自分の中に起こす化学反応、
それらから目を離してはいけないのです。痛々しくても。






並木麻衣の考える「並木麻衣」の価値は、
どれだけ傷がついているか、
どれだけ混じりものだらけで不純であるか、
享楽的に消費することも出来る素材からどれだけのものを拾ったか、
現実の枠から飛び出したモノをどれだけ現実の中で受け止めたか、
そこで決まります。



こんなことを言うとき言葉を操るのは難しいと思わざるを得ないのですが、
これこそが「体験」なのだと思います。
「読書≠体験」ではないのです。
ただ、体験の「主体」が「誰」から「誰」に変わったか、
そこが大事なポイントです。












毎日、往復4時間を超える通学電車の中では
新聞や本を貪るように読むことも
音楽を聴いてスイッチを切り替えることもぼーっとすることもありますが、
自分や他人を観察することもあります。


読むことが、「勉強」することが、外国語を話すことが、日本から出ていくことが
他の何かより「エライ」なんて、
そんなの間違いです。


中卒だとか高卒だとか大卒だとか、
大学生だとかフリーターだとか引きこもりだとかサラリーマンだとかいう、
肩書は人間性に価値を付与しません。
どうしたって限られてしまう環境の中で
どれだけ自分を何かに曝したか、何を吸収したか、
そこが大事だと思うのです。













例えば今、本を読んでいて、
鋭い痛みを感じることもあります。
登場人物のためでも、描かれた世界の現実のためでもありません。

自分がそれと気づかずに囚われているものがまた一つ明らかになる瞬間。
それは本当に苦しいけれど、


そんな痛みを見つめ続けた結果
数年かかって出来上がる「結晶」、


それを握りしめるときの喜びは
「敵をやっつけた!」ときの喜びとは比べ物にならないくらい大きくて深くて、
本を読み終えて月日が経っても心の中から消えることはないのです。
それが好きで、今はいくらでも時間をかけて、傷つきながら何でも読みます。
私にとって本当に価値ある読書は、本を閉じた後にこそ始まるのです。








それにしても最近の記事、ほんと「面白くない」なぁ。
ユーモアに欠けています。読者離れが起きたらどうしよう(笑)。
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